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お笑い第七世代(平成生まれ世代)
霜降り明星・せいやが、2018年12月22日深夜放送のラジオ番組『霜降り明星のだましうち!』[10]で「次の年号の世代を『第七世代』と勝手に銘打ち、20代で区切って固まる」ことを提案したことによる。これは、当初は芸人に限った話では無く、同世代のYouTuberやミュージシャン等とともにジャンルを超えて集まることの提言であった[11][12]。この時の「七」という数字は、せいやの思いつきによるものであり、「順番ではないんすよね。平成世代とか、なんでもよかった」「『ゆとり世代』 でもええわ」ということであった[13][12]。後にせいやは、「ちょっとそんなん(第七世代)があったらおもろいなってラジオで言ったらブワッと広がってしまって…。」と語っている[14]。さらに、「上の世代に勝とうとかじゃなくて、自分ら20代でしかできないお笑いがあるのではないか、そういう可能性を探る世代」としている[13]。
この時代の代表的な芸人
- 霜降り明星、ハナコ、コロコロチキチキペッパーズ、ゆりやんレトリィバァ、濱田祐太郎、ミキ、ブルゾンちえみ、納言、宮下草薙、EXIT、四千頭身、ガンバレルーヤ、かが屋、ティモンディ、Mr.シャチホコ、りんごちゃん、フワちゃん、Aマッソ、パーパー、東京ホテイソン、スタンダップコーギー、ザ・マミィなど
お笑い第六世代
2010年代に入ると、かつての『ボキャブラ天国』の凋落と同様に、2000年代のお笑い人気を支えたバラエティ番組やネタ見せ番組が慢性的な人気低下を抱えるようになる。いわゆる「テレビ離れ」の影響が示唆される中[6]、2010年の『M-1』の一時終了に始まり、やがてほとんどのお笑い番組が放送を終了した(もしくは定期の特番化)。また、BPOによる規制などテレビ局にコンプライアンスが求められるという時代の流れも相まり、ある意味でハラスメント的な性格を含むお笑いバラエティ番組への風当たりが強まったことで[6]、『めちゃ2イケてるッ!』『とんねるずのみなさんのおかげでした』といったかつてお笑いブームを牽引し長寿番組となっていた番組までもが相次いで放送を終了した。
この時代の代表的な芸人
- サンドウィッチマン、東京03、ハリウッドザコシショウ、じゅんいちダビッドソン、野性爆弾、小籔千豊、レイザーラモンRG、千鳥、オードリー、NON STYLE、ハリセンボン、アジアン、U字工事、ナイツ、パンクブーブー、ピース、平成ノブシコブシ、ロッチ、ハライチ、我が家、フォーリンラブ、渡辺直美、狩野英孝、ジャルジャル、トレンディエンジェル、ダイアン、とろサーモン、スーパーマラドーナ、銀シャリ、和牛、ハマカーン、ウーマンラッシュアワー、かまいたち、バイきんぐ、どぶろっく、流れ星、メイプル超合金、ジャングルポケット、パンサー、チョコレートプラネット、佐久間一行、三浦マイルド、AMEMIYA、サンシャイン池崎、あばれる君、厚切りジェイソン、エハラマサヒロ、福田彩乃、やしろ優、キングオブコメディ、ラバーガール、かもめんたる、しずる、シソンヌ、ライス、アルコ&ピース、さらば青春の光、ANZEN漫才、三四郎、アイデンティティ、トム・ブラウン、アインシュタイン、たんぽぽ、阿佐ヶ谷姉妹、ニッチェ、キンタロー。、おかずクラブ、尼神インター、横澤夏子、平野ノラなど
お笑い第五世代(2000年代のお笑いブーム)
ボキャブラブーム後お笑い界はしばらく冬の時代に突入。そんな中1999年にスタートした『爆笑オンエアバトル』(NHK)を始め、若手のお笑い芸人たちを発掘しようとする動きが起こり、その他にも2000年代中盤から『エンタの神様』(日本テレビ)、『爆笑レッドカーペット』(フジテレビ)、『笑いの金メダル』(朝日放送)などいわゆる「ネタ見せ番組」が増え始める。また、2001年には島田紳助企画立案の結成10年以内のコンビを参加対象とした新たな漫才コンテスト『M-1グランプリ』(朝日放送)が立ち上がり、翌2002年からは1人芸を対象にした『R-1ぐらんぷり』(関西テレビ→カンテレ・フジテレビ共同)が、2008年からはコントのコンテスト『キングオブコント』(TBS)が開催されるなど、年に1度開催されるお笑いコンテストを生中継する番組が誕生した。
この時期になると吉本興業や太田プロといった老舗のみならず、数多くの芸能事務所からお笑いタレントが登場するようになった。その中にはサンミュージック企画やソニー・ミュージックアーティスツ、ホリプロコム等従来お笑いタレントを手がけていなかった事務所も多数参入している。
この時代の代表的な芸人
- バナナマン、おぎやはぎ、中川家、キングコング、オリエンタルラジオ、チュートリアル、ブラックマヨネーズ、次長課長、フットボールアワー、ますだおかだ、品川庄司、アンジャッシュ、アンタッチャブル、笑い飯、麒麟、トータルテンボス、タカアンドトシ、ダイノジ、スピードワゴン、カンニング、ペナルティ、サバンナ、ロザン、ハリガネロック、2丁拳銃、COWCOW、アメリカザリガニ、東京ダイナマイト、ライセンス、ドランクドラゴン、インパルス、ロバート、南海キャンディーズ、アンガールズ、博多華丸・大吉、いつもここから、どきどきキャンプ、ザブングル、超新塾、ずん、パックンマックン、北陽、森三中、クワバタオハラ、はんにゃ、フルーツポンチ、バカリズム、有吉弘行、柳原可奈子、鳥居みゆき、山本高広、原口あきまさ、ホリ、ミラクルひかる、前田健、はるな愛、ケンドーコバヤシ、たむらけんじ、青木さやか、だいたひかる、陣内智則、はなわ、友近、まちゃまちゃ、劇団ひとり、桜塚やっくん、イモトアヤコ、いとうあさこ、椿鬼奴、なだぎ武、なかやまきんに君、ネゴシックス、中山功太、あべこうじ、大西ライオン、長井秀和、世界のナベアツ、波田陽区、ムーディ勝山、小島よしお、髭男爵、ダンディ坂野、ヒロシ、藤崎マーケット、にしおかすみこ、レイザーラモンHG、小梅太夫、天津、レギュラー、テツandトモ、パペットマペット、エド・はるみ、三瓶、長州小力、アントキの猪木、パッション屋良、マイケル、若井おさむ、猫ひろし、ザ・たっち、クールポコ。、ジョイマン、ゴー☆ジャスなど
お笑い第四世代(バラエティブーム)
1990年代に入ると、これまでのバラエティ番組人気の中心となっていたフジテレビに倣う形で、ターゲットおよび内容をサブカルチャー的観点に絞り込んだ多種多様なバラエティ番組が多く制作されることとなった[6]。その結果、バラエティ番組がお笑いブームの中心となる、「テレビっ子の時代」とも言うべきムーブメントが巻き起こったのである。
タモリのボキャブラ天国
視聴者投稿を元に作られていたテレビ番組『タモリのボキャブラ天国』(フジテレビ、タモリ司会)が、徐々にその性格を変えて「大勢の若手芸人がネタを競い合う番組」に変化すると、若い女性などを中心とする特定層の支持を集めたが、番組の人気凋落に伴い、ほとんどの出演者が次第に存在感自体をフェードアウトさせてゆく(つまるところ、しっかりとした下積み経験があったわけではない「ポッと出」の出演者が、視聴者のバブル人気に舞い上がっていただけであった。この現象はのちにも『爆笑オンエアバトル』や『エンタの神様』で繰り返されることになる)。この番組をきっかけに知名度を得た世代をお笑い第四世代と呼ぶことが多い[4]。爆笑問題(厳密に言うと第四世代ではない)、ネプチューン、海砂利水魚(現:くりぃむしちゅー)などは、のちに各局で冠番組を持つことになる。
その他の出演者
- アニマル梯団、アリtoキリギリス、オセロ、男同志(江頭2:50、コンタキンテ)、金谷ヒデユキ、ジョーダンズ、Take2、デンジャラス、つぶやきシロー、TIM、ノンキーズ、パイレーツ、X-GUN、BOOMER、フォークダンスDE成子坂、松本ハウス、MANZAI-C、U-turnなど
ナインティナインとロケの多様化、同時代性[編集]
広告代理店やジャーナリズムによる造語「第四世代」という定義に厳密に合致していないが、ほぼ同時期のものとして、フジテレビ『とぶくすり』(のちの『めちゃ2モテたいッ!』→『めちゃ2イケてるッ!』)や日本テレビ『ぐるぐるナインティナイン』などがあり、これらの番組からナインティナイン、よゐこらが1993年頃から知名度を得た。これらに通底しているのはロケーション撮影(ロケ)の多用、そして同時代性である。
1990年代初頭に漫才スタイルがダウンタウンのもとで飽和に達し、それ以降の芸人やお笑い番組は違うスタイルを築きあげる必要にせまられた。その経済学的にいう(商品)差別化の中でたどり着いたのが、街に繰り出し現場や社会を笑いのネタにするというロケーションの手法であり、「リアル」を笑いにして視聴者を惹きつけるとともに、テレビに映る若者が参加しているという同場所性や、それを通して若者と同世代を生きているという同時代性が親近感を醸成し、ヨコの繋がりを生み出して、漫才やコントとは違う人気に結びついた。これらは、番組をテレビ局で撮ると先輩芸人に偶然会ってしまうという若手芸人の緊張や心理、当時抱いていた劣等感がそれを避ける形を求めたということにもある。
その結果、お笑い第二世代や第三世代の時代に全盛を極めたコント番組が減少し、コント番組以外でブレイクする芸人が出てきたのもこの世代からである。
この世代の代表的な芸人
爆笑問題、ナインティナイン、キャイ〜ン、よゐこ、フォークダンスDE成子坂、雨上がり決死隊、極楽とんぼ、FUJIWARA、千原兄弟、チュパチャップス、バッファロー吾郎、ジャリズム、山田花子、オアシズ、ネプチューン、くりぃむしちゅー、ココリコ、TIM、Take2、オセロ、ロンドンブーツ1号2号、DonDokoDon、ガレッジセール、藤井隆、U-turn、ふかわりょう、ビビる、猿岩石など
お笑い第三世代
1980年後期から1990年初頭に、テレビの深夜番組を発端としたブーム。演芸ブームを「お笑い第一世代」、漫才ブームを「お笑い第二世代」と数えて「お笑い第三世代」と呼ばれた[4]。
1980年代初頭にメディアを席巻した漫才ブームが、1982年頃を境に人気が低迷期に突入し、ブームに活躍した漫才師は、コンビ解消やピン活動などメディアの幅を拡大させていた。同時期、大阪・吉本興業は新人発掘を目的に、新人タレント養成所「吉本総合芸能学院」(通称:NSC)を開校。養成所からはダウンタウン、ハイヒール、トミーズなどの漫才師が誕生するが、デビュー直後に全国的に認知されるまでに至らなかった。一方東京では、前記のブーム期に放送された「お笑いスター誕生!!」や各局のお笑いオーディション番組で活躍した山田邦子、とんねるずを筆頭に頭角を現し、タモリ、明石家さんま、ビートたけしのビッグ3がテレビ界を独占している状態であった。
1980年代中期、民放各局は深夜放送が急増、セミプロ・アマチュアのタレントの登場により、お笑いシーンに変化が訪れ、若手主体による小劇場やライブ・スペースが東西問わず数多く開催(主に心斎橋筋2丁目劇場、ラ・ママ新人コント大会)され、旧来の師弟関係での定義が薄れ、タレント育成所・ライブ出身者になる新たな仕組みが生まれた。さらに演劇界では、演劇的な笑いを織り交ぜたシティボーイズを代表に新たなジャンルを切り開いた。メディアでは漫才ブーム〜ひょうきん族世代以降のタレントを「ニューウェーブ」や「新人類」と総評し、さらに民放各局が終日24時間放送を実施。深夜番組が一世代に比べて一層に拡大。 その後、後にお笑い第三世代の代表格とされるとんねるずがビッグ3の独占状態だったテレビ界に割って入り、前述の三者のお笑いは古いとまで言わしめた。その後、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンも、とんねるずを追いかけるまでの人気を獲得した。この経緯によりとんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンがお笑い第三世代の代表格とされている。この3組の活躍とともに「楽しくなければテレビじゃない」を標榜し「軽チャー」路線を打ち出したフジテレビが多くのバラエティ番組を制作し人気を博した[5]。 この時代まではお笑い第二世代と同様、お笑い芸人がブレイクする番組のフォーマットは基本的にはコント番組がほとんどであった。
代表的なタレント
- とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、B21スペシャル、野沢直子、ピンクの電話、チャイルズ、久本雅美、柴田理恵、ツーツーレロレロ、ガダルカナル・タカ、ダチョウ倶楽部、ホンジャマカ、TEAM-0、バカルディ(現:さまぁ〜ず)、Z-BEAM、SET隊、圭・修、まるむし商店、出川哲朗、今田耕司、東野幸治、130R、ジミー大西、森脇健児、山田雅人、木村祐一、浅草キッド、トミーズ、ハイヒール、石田靖、伊集院光、勝俣州和
- ものまね コロッケ、清水アキラ、栗田貫一、ビジーフォー、清水ミチコ、岩本恭生、松村邦洋
お笑い第二世代(MANZAIブーム)
1979年から1982年頃まで続いた、テレビの演芸番組を中心としたブーム。演芸ブームの後、コント55号(のちに萩本欽一)・ザ・ドリフターズの2強時代となり、総じて東京発のバラエティー番組がお笑いの主流を占めていた。上記2組の間隙を縫って、せんだみつおや桂三枝(現・6代目文枝)、伊東四朗&小松政夫などが台頭してきたが、この手のバラエティー番組はほぼやり尽くされた感があり、全国ネットのテレビの笑いは一種の砂漠化現象となっていた。
一方、大阪では演芸ブーム以降Wヤング、コメディNo.1、中田カウス・ボタンといった吉本興業の漫才師が台頭し、特に若者に人気の高かった中田カウス・ボタンを筆頭に笑いの潮流が吉本側に傾きつつあった。しかしながら、この傾向はまだ関西ローカルに止まっており、全国向けの関西の演芸は依然としてかしまし娘やレツゴー三匹などが起用され、松竹芸能の力が強かった(松竹でも笑福亭鶴光や笑福亭鶴瓶などが登場してはいた)。
そんな1979年、澤田隆治、横澤彪といったテレビマン達の手により、寄席演芸の色物(傍流)であった漫才がテレビのメインコンテンツに躍り出た。特にパワー溢れた当時の若手上方漫才師達は一躍時代の寵児となり、笑いが流行の最先端となった。吉本興業は関西止まりで燻っていた炎がこの時期一気に爆発した形となり、松竹芸能との形勢を逆転させて東京再進出の足がかりを築いた。また、一方言に過ぎなかった関西弁が漫才ブームの影響で全国的な知名度を得るなど、現在もその影響は大きい。
東京においては小劇場やライブ・スペースを活動拠点にした笑いのストリームが生まれつつあった。この主体となったのは硬直した組織の活動に飽き足らないゲリラ集団であり、東京では傍流であったマセキ芸能社の意欲的な活動や三遊亭円丈の「新作落語」ムーブメントは見過ごせない。また自身でネタを構成する芸人や、深夜放送のハガキ職人出身の放送作家の増加に伴い、若者ウケのよいスピーディーで毒や刺激の強いお笑いが増える。また当時は若手の女性芸人が少なかったこともあり、芸歴で言えば後述のお笑い三世代に該当する山田邦子が新人ながらいきなりブレイクし、1つ上の第二世代に混じって台頭していくこととなる。この点、まだ大阪はテレビ局を軸としており興行資本の「小屋」への資本投下はまだ少し先の話となる。
お笑い第二世代の台頭は芸能界にも大きな影響を与え、それまで歌手や俳優と比べて低く見られていたお笑いタレントの地位が大きく飛躍することとなった。特にツービートから独立したビートたけしはラジオパーソナリティや俳優業、歌手活動や店舗プロデュースなど多岐に渡る活動を行い、今日に続くお笑いタレントの多角活動の先鞭をつけることとなった。
代表的なタレント
- 漫才 横山やすし・西川きよし、B&B、ザ・ぼんち、ツービート、のりお・よしお、紳助竜介、オール阪神・巨人、今いくよ・くるよ、太平サブロー・シロー、春やすこ・けいこ、星セント・ルイス、おぼん・こぼん
- 落語 春風亭小朝、2代目桂枝雀、桂文珍、三遊亭圓丈、桂小つぶ(現:桂枝光)、林家しん平、金原亭駒平(現:金原亭世之介)、笑福亭鶴瓶、明石家さんま、三遊亭楽太郎(現:6代目三遊亭円楽)
- コント コント赤信号、ゆーとぴあ、ヒップアップ、コント・レオナルド、ギャグ・シンセサイザー、シティボーイズ、関根勤・小堺一機、志村けん
- 一人コント 小柳トム、イッセー尾形、山田邦子、九十九一
- 漫談 バラクーダ、竹中直人、でんでん
- 奇術 マギー司郎、ナポレオンズ
- 物真似・形態模写 タモリ、片岡鶴太郎、コロッケ
お笑い第一世代(演芸ブーム)
1962年頃から1969年頃まで続いた、テレビの演芸番組を中心としたブーム。景気後退の中、番組制作費が抑制された各局は制作コストがかからず視聴率が取れる演芸番組に傾斜。また、視聴者の側も不景気による沈滞ムードの中、テレビに笑いを求めていた。
- 代表的な番組
- 代表的なタレント
- 落語 6代目三遊亭圓生、4代目柳亭痴楽、2代目三遊亭歌奴(3代目三遊亭圓歌)、2代目三遊亭小金馬(現:4代目三遊亭金馬)、初代林家三平、3代目古今亭志ん朝、5代目三遊亭圓楽、7代目立川談志、5代目月の家円鏡(8代目橘家圓蔵)、桂歌丸、4代目三遊亭小圓遊、8代目古今亭志ん馬、6代目笑福亭松鶴、3代目桂米朝、5代目桂文枝、3代目桂春団治、2代目笑福亭松之助、初代森乃福郎、3代目笑福亭仁鶴、月亭可朝、桂三枝(現:6代桂文枝)
- 漫才 中田ダイマル・ラケット、夢路いとし・喜味こいし、かしまし娘、京唄子・鳳啓助、海原お浜・小浜、平和ラッパ・日佐丸、若井はんじ・けんじ、上方柳次・柳太、漫画トリオ、人生幸朗・生恵幸子、浅草四郎・岡八郎、正司敏江・玲児、レツゴー三匹、横山やすし・西川きよし、リーガル天才・秀才、コロムビア・トップ・ライト、Wけんじ、獅子てんや・瀬戸わんや、青空千夜・一夜、青空はるお・あきお、青空球児・好児、晴乃ピーチク・パーチク、晴乃チック・タック、新山ノリロー・トリロー、内海桂子・好江
- 漫談 牧伸二、東京ぼん太、ケーシー高峰
- ボードビル・大道芸 早野凡平
- コント てんぷくトリオ、トリオスカイライン、ナンセンストリオ、トリオ・ザ・パンチ、ギャグメッセンジャーズ、コント55号、ストレートコンビ、コント・ラッキー7
- コミックバンド ハナ肇とクレージーキャッツ、ドンキーカルテット、ザ・ドリフターズ
- ボーイズ 灘康次とモダンカンカン、横山ホットブラザーズ
- 声帯模写・腹話術 小野栄一、桜井長一郎、八代英太、川上のぼる
- 奇術 アダチ龍光、ゼンジー北京、伊藤一葉
- 太神楽曲芸 海老一染之助・染太郎
喜劇映画の全盛
テレビ創成期にあっては、映画は、いまだ娯楽のメディアとしての優位性を誇っており、特に、カラーテレビの普及までは、手軽ではあるが、画像・音声で劣るものとの認識があった。テレビで人気が出たコメディアンも予算が豊富な映画を重視する傾向があり、クレージーキャッツなどは、ゴールデンウィークや年末といった時季に合わせ、シリーズものの大作喜劇を制作し、爆発的にヒットした。